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鬼縄のSM blog(FC2改)

鬼縄のSMブログです。淫靡な妄想の世界を彷徨っています。

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性欲の発明

卑しい肉体のいやらしい肉欲は個人のもつ性欲として捉え直された。それまでの肉欲は、悪魔に吹き込まれたり、女に誘惑されたりして生ずるものであったが、それとは起源や条件を異にする性欲が発明されたのである。

肉欲は肉体の欲望であって、たとえば、うまいものをたらふく喰いたい欲望も含まれているが、性欲は異性の性器をめざし、性交を求める特定の生物学的欲望を指している。
そのような性欲が発明されたということは、近代における神の死と個人の成立の結果の一つであった。

人間の行動が神の創造した世界の秩序のなかの一要素(たとえば、占星術は、星の運行と人間の運命とはともに神が司っているのだから、星占いをすれば人間のことがわかるというこの種の見方にもとづいている)ではなく、個人が選択し決断したものとなっだため、個人がなぜそうしたかを個人の内面から説明しなければならなくなり、そこで、性欲というものが発明されたと考えられる。

性欲が発明されると、それまで世界における二人の何らかのかかわりの形であった性交が個人の性欲の満足、個人の快楽のためのものとなった。しかしやはり、キリスト教の霊肉二元論はそのまま、性欲にもとづく近代の男女関係に引き継がれた。
すなわち、罪深くいやらしいと見なされた点においては、性欲も、それまでの肉欲と同じであった。また、性欲が恋愛とは関係のない、いやむしろ恋愛と対立するものとされた点は、肉欲が神の愛と対立するものとされていたのと同じであった。。
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| 性的SM論 | 20:45 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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神が死んで恋愛が登場した

人間は本能が壊れているから、男と女は本能で結びつくことはできないが、何らかの形で結びつくことは必要である。
西欧においては、神が本能の代替物として男と女を結びつけていたが、その神が衰えると、さらにその代替物が必要になった。そこで、恋愛が登場し、性欲が発明され力のである。

なぜ神が衰え、そして死んでしまったかについては歴史家たちがいろいろ言っているから、そちらに尋ねてもらうことにして、とにかく、それが近代という時代であった。
参考:宗教改革・ルネサンス・近代科学による、キリスト教の衰退化

恋愛の原形はキリスト教における全知全能の神への愛と崇拝であって、対象が神から人間に代わっただけであるから、その感情内容はほとんど変わらない。ニーチェ(『善悪の彼岸』)は「怪物と戦う者は、自分もそのため怪物とならないように用心するがよい」と言ったが、皮肉なことに、キリスト教への反逆として始まった恋愛も、現実の世界で実現不可能な愛の実現をめざす点において、キリスト教と同じ迷妄に陥り、同じような怪物になってしまった。

すなわち、近代の恋愛において多、男の場合で言えば、相手の女をかけがえのない唯一無二の存在として理想化し聖化し、純粋な思慕を捧げ、そして、いわゆるプラトニックラヴというか、彼女を性対象にするのはこの聖なる存在を穢すことになるとして否定するのである。
そういうのが真の恋愛であるとされ、彼女との性交を望むのは不純なのであると言われたのである。
今でもこのような考え方は歴然としてある。

| 性的SM論 | 20:37 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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SMは神からの解放

愛は神への愛が基本であるから、愛そのものは価値あるものであり、ただ、神に無断でほかへ向けられた愛がよくないだけであるが、愛と違って、セックスは男女を結びつける以外には使いようのないものであり、かつ、卑しむべき肉体のいやらしい肉欲の表れであるから、セックスは、キリスト教にとって、恋愛よりはるかに危険で恐るべき商売敵であった。

したがって、キリスト教は、できることなら、セックスをなくしてしまいたかったのである。
しかし、それでは人類が滅亡するし、どうしても自制できない者もいるだろうから、そういうわけにもゆかず、結婚して子供をつくるのに必要な場合のみ、しぶしぶ容認したのである。

したがって、快楽のためなど、子供をつくるのに必要でないいっさいの性行動は禁止された。
避妊や中絶が禁止されたのは快楽のための性交を認めることになるからであり、同性愛が罪であったのは子供をつくるために役立だないからであった。もちろん、マスターベションも罪であった。子供をつくるための性交においても、前戯に時間をかけるとか、いろいろな体位を試してみるとか、余計なことはしてはならなかった。

キリスト教は商売敵をこれほどまでに恐れていた。「宗教」(religion)という言葉は語源的には「結ぶ」という意味だそうであるが、キリスト教は男と女を結ぶことを神の専売特許にしようとしたのである。

神の意志ではなく己の欲望や気持ちで異性を求めるSMは、まさに神からの解放であり、反逆でありその為に同性愛と共に永く異端とされてきた。
マルキ・ド・サドの作品は、リベラル思想に裏打ちされた背徳的な思弁小説であり、エロティシズム、徹底した無神論、キリスト教の権威を超越した思想を描いた小説でもあったために、彼は刑務所と精神病院に入れられたのである。
もしかしたら、橋下府知事も同じ運命を辿るかもしれない。本質を語る人間はいつの世も糾弾されるのだ。

| 性的SM論 | 17:48 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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「愛」は神の独占販売商品であった。

愛の宗教であるキリスト教では、神の国は愛の国であり、すべての愛は神のものであって、神が独占しようとする。

たとえば、今やほとんど形骸化しているが、キリスト教の教会の結婚式では、新郎は新婦に、新婦は新郎に永遠の愛を誓うが、ご存じのように、おたがいに相手に対して誓うのではなく、神に対して誓う。
もちろん、婚姻の秘蹟を受けていない男女の関係は罪であった。つまり、神が介在しないところで男女の愛が成り立ってはならないのであった。神の知らないところで男女が直接に愛し合ったりするのは、神をないがしろにすることであって、神に対する反逆なのである。

つまり、神が愛を独占していて、神を介さずに人が人を愛するのは許されないのである。

宇宙を創造し、おのれに似せて人間をつくり、人間に関するすべてのことを支配する全知全能の神を戴くキリスト教においては、人間はすべての愛を神に捧げるべきであり、したがって、ある人が神の与り知らぬところで勝手に別の対象を愛すれば、神にとっては、それは本来なら自分が独占しているはずのものが、無断で不当にも人間によって勝手に使われたということであった。

恋愛の起源はキリスト教の異端であるというような考えがあるが、それは人が人を直接愛する恋愛は、キリスト教にとっては、いわば、同じ商品を密売する商売敵のようなものであったからである。

つまり、神と恋愛は、人と人、男と女をつなぐという同じ効能をもつ商品を製造販売しているわけで、人が人を神ぬきで直接愛するというようなことをされては、神が独占販売権をもっている商品の昔からの顧客を後から現れた商売敵に取られたようなものであって、そのようなことは断じて許すわけにはゆかなかったのである。

| 性的SM論 | 20:13 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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「愛」は架空の世界のモノ

キリスト教がこれほどまでにセックスを敵視したのは、キリスト教とほぼ同じ
頃、ヘレニズム世界に成立したグノーシス派の二元論などの影響もあろうが、
第一の理由は、もちろんこの宗教の内部構造にあると考えるのが順当であろ
う。
キリスト教は愛の宗教であるということになっているが、この「愛」に問題が
あるのではないかと言われている。

この宗教においては、霊と肉、アガーペとエロスが厳密に区別されている。ア
ガーペは霊魂のものであって、神に捧げられる愛、清らかで、崇高な愛であ
り、神に救済され、死後に永遠の生命を得るためには、霊魂において神を愛
し、神に愛されなければならなかった。
言い換えれば、愛とは、現世のものではなく、現世に対立し、現世では実現不
可能なものであった。それに反して、エロスは現世のもの、肉体のものであっ
て、卑しい、いやらしい肉欲であった。

この宗教が霊魂を尊び、肉体を蔑んだのは、その来世観、終末観のためであろ
う。神の国、愛の国にしか霊魂の救済、永遠の生命はなく、肉体はすぐ滅びる
一時的な無価値なもので、しばしば霊魂の足を引っ張り、霊魂がその純粋さを
貫くのを邪魔するわけだから、なければないほうがいいのであった。

そして、肉欲こそは肉体のもっとも典型的な表れであり、同じように、なけれ
ばないほうがいいのであった。
肉体の誘惑である肉欲に負け、一時的な性の快感に耽ることは、永劫の罰の苦
しみがつづく地獄に落ちることであった。

要するに、キリスト教の性否定は、架空の世界に真の愛、唯一水遠の価値を求
め、現世否定を救済の条件にしたことから不可避的に導かれる論理的帰結であ
ると考えられる。

つまりは、元々の「愛」という概念は、現世では得られないものであって、架空の世界のモノで
あったのだ。

| 性的SM論 | 20:11 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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私は悪魔の手先

キリスト教ほど性を弾圧した宗教は他にはないと思われる。
キリスト教の初期の教父達の中には、人類の存続のために性交が必要なら、人類なんか滅亡した方がましだと考えていた者もいたぐらいで、その性嫌悪はまさに狂喜の沙汰であった。
どのような文化においても、強い弱いの違いはあれ、ある程度の性のタブーは存在しているが、キリスト教の性のタブーは、あまりセックスに耽りすぎるのは良くないからほどほどにしておこうとか、セックスの事をあまりおおっぴらにするのは恥ずかしいからなるべく隠しておこうとかいった生やさしいものではなく、性に対して他のいかなる宗教、いかなる文化とも比較にならないほど際だって敵対的である。

キリスト教の性否定の例としてよく引用される、『新約聖書』の「コリント人への第1の手紙」(第七章)の中のパウロの言葉である。
それでもこれはまだ、好ましくはないが、やむを得ない事として結婚して性交する事は容認しているので、キリスト者の言葉としてはまだ控えめな方であるようだ。結婚して子供を作るためにする性交すらやむを得ない必要悪なのだから、結婚もしないで、子供を作る目的でもない性交を認め、性こそ人間の本質で人生のベースであるとのたまう私などは最下位の人間、若しくは悪魔の手先と言う事になるだろう。

明治以降西洋文化としてこのような思想も日本に入ってきたが、現代の日本でも似たような考えをもつ人(特に女)は多い。しかしそれが女を辱めるという嗜好を下差さえしてくれているというなんとも皮肉な事になっているのである。

| 性的SM論 | 17:54 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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多情こそ本質

私は多情を非難しているのではなく、むしろ肯定していて、多情こそ本質的なものだと考えている。むしろ一途の方が欺瞞的であり、偽善的であると考えている。人間の本質的な性欲を認めれば多情こそが自然なのである。しかし道徳やモラルはそれを非難するだろう。一途で唯一の方が世間には受け入れられ、同情され、評価されるのである。

一途で唯一は、「愛」と同様に条件ではなく、結果なのであると私は思っている。結果として一途唯一だったに過ぎず、過程として、条件として一途唯一を持ち出してもあまり意味のないことである。「愛」と同様に一途唯一を条件として考えるから彷徨うのである。
しかも結婚すれば一途唯一を法的にも強要される。更に彷徨うことになる。

「多情」は男の専売特許だと、結構長い間思われてきた。そして男の多情は道徳的にも制度的にも許容されてきた歴史がある。それに比べ、女の多情は認められてこなかったし、下手をすると女の多情は病気として扱われてきた歴史がある。それ故今でも女の多情は、男の多情に比べて非難されやすい。だから女は多情を口にしないし、自己規制してしまう傾向が今でもある。しかし、男も女も多情こそが本質なのである。一途唯一は結果でしかないと、今の私は思っている。

しかし、理屈と感情は別物である。感情も思想や道徳、宗教や歴史から影響を受けるとしても、そういうものからは独立して存在していて、自分自身でも制御できない場合がある。
私が若い頃受けて、更に受け続けてきた女の多情による私の男の屈辱感や嫉妬心は理屈とは別の所に確かに存在してしまう。理不尽ではあるが、女の多情は男のそれに比べ社会的にも非難される傾向がまだ残っているので、更に私の感情である屈辱感や嫉妬心は強く補強されてしまう。今でさえそうなのであるから、私が若い頃受けた「傷」は結構根深い心の澱となって沈殿してしまっているのであろう。

感情と理屈も矛盾を孕む。その矛盾が牙となって女を嗜虐する心が生まれるのかもしれない。矛盾があるからこそSMも成り立つという持論に戻る。
まさに、女の一途唯一を実現するのは私次第と言うことであろうが、本質である多情を抑えるには己をよっぽど磨かなければならぬであろう。

| 性的SM論 | 18:15 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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SMは神への反逆

人類の男女は大昔から好いたり好かれたり、性交したり、一緒に暮らしたり、子供を作ったり、結婚したりしてきた。もちろん、嫌いあい、憎みあい、殺しあい、捨てたり捨てられたり離婚したりもしてきた。
そういう男女を結びつける動機というか根拠として恋愛や性欲というものが発明されたのは、西欧の近代においてであると考えられている。西欧で発明されて日本に輸入された訳で、そもそも日本語の「恋愛」や「性欲」は西欧語の訳語として明治時代に作られた言葉だそうである。

では、恋愛や性欲が発明される前の西欧ではどうなっていたかというと、ごく大まかに言えば、近代以前は、男女の関係は神によって結びつけられ、支えられていたのではないかと考えられる。
もちろん、これはタテマエというか原則であって、神が介在しない男女の関係は現実にはいくらでもあっただろうが、そういうのは異端とか不信仰とか不道徳とか、神の戒律に悖ることとして咎められ排除され消されたと考えられている。

ルージュモン(『愛について』鈴木健郎・川村克己訳)によれば、13世紀にローマ・カトリック教会に異端として弾圧され、滅ぼされたキリスト教の一派である、女神を崇めるカタリ派の伝統が、貴婦人への禁じられた思慕を歌った南仏のトルバドゥール(吟遊詩人)に受け継がれ、それが近代の恋愛の先駆けになったとされている。両者は、女神または貴婦人の崇拝や禁欲主義などの点では共通性はあるものの、別個に起こった現象であると考える説もあるが、いずれにしろ、恋愛の起源がキリスト教の異端にあったということは充分考えられる。キリスト教がどういう宗教であるかを見れば、恋愛のような現象が許される余地があるはずがないからである。

そういえばマルキ・ド・サドのSMは女を汚したりはするが、その根底はアンチ・カトリシズムであり、女神または貴婦人を崇めるカタリ派の伝統にも逆説的に通じるところがあるかもしれない。神の意志ではなく己の欲望や気持ちで異性を求めるSMは、まさに神からの解放であり、反逆である。

| 性的SM論 | 13:42 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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女は愛と性が一致しているのか

女が男を尊敬する男と軽蔑する男との二種類に分け、愛と性をこの二種類の男のそれぞれに振り分けるということをしないのは、振り分ける必要がないからであるが、しかしまた、振り分けることが出来ないからでもある。

第一に、そうできるためには、ある種の男を軽蔑し低く見ていなければならないが、男と違って、女は一般に、性対象を軽蔑することになれていない。
社会的偏見のために、男女関係は上下関係と見られがちで、女が性対象の男を低く見れば、自分を更にそれより低い位置に置くことになる危険がある。

第二に、男を性欲の対象としてのみ扱うことが出来るためには、性欲を自分の能動的欲望として肯定し、自我に組み入れていなければならないが、一般に社会通念として、女の性欲は男の性欲ほどには容認されていないので、それが難しい。
男だって、女を単なる性欲の対象としてのみ扱うのには、内的禁止というか、ある程度の後ろめたさとためらいがあるが、女が男を単なる性欲の対象としてのみ扱うのには、はるかに強い内的禁止があるようである。
その上、女には、性交の際に自分の性欲をあからさまに強く打ち出しすぎると、相手の男が不能に陥るのではないかという、男にはない不安がある。

その他、最後に付け加えれば、女は例え性満足だけのために性交したとしても、見栄のためか、羞恥心のためか、相手の男を愛しているから性交したのだと人にも思わせたいし、自分でも思いたいということがあるようで、実際以上に女においては愛と性が一致しているように見えるということもあるかもしれない。

| 性的SM論 | 18:07 | comments:2 | trackbacks:0 | TOP↑

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聖女と娼婦は同じ女の二つの面である。

女は男と比べて愛と性が一致しているようであるが、それについては、以下のような理由も考えられる。
男が抱く女性像は、特に西欧近代の性文化において、聖女と娼婦という両極端に分裂していることがよくあり、前者に近づけない男がもっぱら後者を性対象にしようとする。
日本の性文化においては西欧近代の性文化ほど両極端に分裂しているとは思えないが、それでも明治維新後、西欧文化を必要以上に取り入れたために似たような現象は日本においても見受けられる。

さて、女の男性像はそれほど分裂していないので、女は男との関係で男ほどは愛と性を使い分ける必要がないと言われている。
女の男性像が男の女性像ほど分裂していない原因は、女の子が異性である父親を知る時期と、男の子が異性である母親を知る時期との違いにあると考えられている。

男の子は生まれるとすぐ母親と接する。
初めは、自我はなく、母親と自分の区別がつかないが、その区別がいくらかできるようになっても、まだ現実感覚の発達は不十分で、母親について現実離れした誇大なイメージを持つ。これを全知全能の母親という。
男の子にとって、この全知全能の母親は無力な自分を全面的に保護してくれると同時に支配し圧迫する存在でもある。男は、後の性関係において、このような全知全能の母親から離脱しなければならない。その為に、自分が軽蔑し支配することが出来る女を見つけるか、作り出す必要がある。
女の子にとってももちろん母親は全知全能の母親である。しかし女の子は母親とは同性であり、後の性関係において母親から特に離脱する必要がない。それでも男の子と同様に女の子も母親に対するコンプレックスはあるように思う。

それに比べ、女の子が異性である父親を知るのは男根期であり、この時期には自我も芽生え、現実感覚はかなり発達しており、女の子は、男の子が母親を理想化するほどには父親を理想化しないし、父親についてはそれほど現実離れしたイメージを持たない。
女の子が父親を知った時の自分と親との隔たりは、男の子が母親を知った時の自分と親との隔たりほど大きくないので、女の子は、男の子が母親に圧迫されているほどには父親に圧迫されておらず、後の性関係において、女は、男ほど怯えておらず、傷つきやすくなく、そして、母親の圧迫からの解放というか、圧迫の打倒というか、そういうことを求める必要を男ほどは感じなくて済む。したがって、相手の男に対して攻撃的になる必要がないと思われるのである。
但し、男ほどではないが、女の子も全知全能の母親からはやはり圧迫を受けていることは間違いないし、その圧迫から離脱しなければならないことは間違いないのであるが、母親とは同性であるが為に、性と直接結びつかないところが男の子とは違うのである。

女は愛と性を切り離して、性を攻撃の手段とし、一方を理想的な男に、他方を軽く見ていい男にという風に振り分ける必要がない。男女関係において、男が、一方では女を必死に貶めようとしながら、他方では過度に理想化し、崇め、憧れるのに反し、女はそのいずれにおいても極端に走らないのである。
男が女に抱く正反対の二つの傾向は、同じコインの表裏である。聖女と娼婦は同じ女の二つの面であると言える。

| 性的SM論 | 20:30 | comments:0 | trackbacks:1 | TOP↑

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