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鬼縄のSM blog(FC2改)

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男に「やられやられる」こととしての女の性交

世の中には、女であるというだけで、いろいろ得をすることはいっぱいある。
しかし、売春や売春まがいの結婚は、女にとって楽で、いろいろ得をする面がない訳ではないが、それは罠かもしれない。男のように仕事をして生きて行く道がほとんど遮断されている社会的条件の下では、女達は、売春するか結婚するかしかなく、差別的性文化は、女に男の性欲の対象であることに甘んじさせる為に、いろいろ美味しいえさを用意していると考えられる。

女になることに抵抗する者もいる。自ら求めたのではなく、どこからか突然舞い込んできた女という役割をすんなり引き受けるのは何となく癪だと言うこともあるであろうが、抵抗する理由は、基本的には、男の性欲の対象という受動的役割が屈辱的で、自尊心に抵触する面があり、その為に反発を感じるからであろう。
精神分析においても女の子が女になることに抵抗するこの事実は昔から注目されており、フロイドの言う男根羨望は女の子が単に男根を欲しがると言うことではなく、男根を持たない自分への女の子の否定的見方を差した言葉であり、A・アドラーの男性的抗議という概念は女になることへの女の抗議を表した概念であろう。

動物の雌にとって性交が屈辱的でないように、人間の女にとっても性交それ自体が屈辱的と言うことはないはずである。要するに、男と同じように女も能動的に性欲を満足させる為に性交するのであれば、性交が女にとって屈辱的であるはずがない。屈辱的であるはずがないのに、そうなるのは、文化的に、社会的に能動的に性交することが女には許されていないからである。男に「やられる」こととして女の性交があるからである。


屈辱とは能動性、主体性の剥奪である。
男の性欲が重視され、女の性欲は無視されて、女には男の性欲を満足させる受動的役割が押し付けられる傾向が強い文化ほど、性交における女の役割は屈辱的である。

SMにおけるMの役割も屈辱的であるが、ノーマルの性交の場合と根本的に違うのは、その屈辱を能動的に欲するというところである。その行為は受動的であっても、能動的に屈辱欲望を満足させる為にSMをするのであるから、本質的にMは屈辱感を抱かない。その意味では、SとMは、ノーマルな男と女より対等関係を築いていると言えるであろう。
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